ついに明日、カトマンズを発つ。
約一ヶ月という、自分にとっては長いようで短かった旅もこれで終わりとなる。
そんな中、ここ数日ある疑問がずっと頭に浮かんでいる。
それは、「旅に出る理由とは何なのだろうか」というものだ。
なぜ、自分は、快適な東京での一人暮らしを一時手放してまで、大金をかけてわざわざ遠いネパールの地にやってきたのだろう。
世界遺産にも指定されている海外の歴史的な建造物を見たかったのかもしれない。
もしくは、異国の地での人との出会いを求めていたのかもしれない。
はたまた、東京の喧騒を抜けて美しい自然の中で保養したかったのかもしれない。
確かに、そんな気持ちもあっただろう。
わざわざ海外に行こうとまでする人は、大体そのような考えを持っているものなのだろうし。
しかし、である。
今書いてきたようなことなんて、別に東京にいてもできるのだ。
東京にも目を見張るような建造物はあるし、人との出会いを求めているのならむしろコミュニケーションに不備の無い東京の方が、深い付き合いはできるだろう。
それに、自然なんてものは、3日もいれば飽きてしまうものだ。
一人で自分を見つめ直す期間が欲しければ、家にでも閉じこもってればその願いは叶うし、どうしても海外の空気を感じたいのであれば、今のご時世、Googleアースでも眺めれば大抵のものは事足りてしまう。
それなのに、人はなぜ、わざわざ旅に出るのだろうか。
確かに今回の旅では、色んな人に出会うことができ、色んなものを見ることができ、色んなことを感じることができた。
しかし、そのような旅の中での経験というものは、東京で色んな人に出会い、色んなものを見て、色んなことを感じた「普通」の日々の中での経験と、何ら違いは無いものだったと今は思う。
もしかしたら、自分は、旅先に潜む僅かな差異を感じることのできない、感受性の貧しい人間なのかもしれない。
だけど、やっぱり旅先での経験というものは、「普通」の暮らしの中でも感じることができるものにすぎないと思うのだ。
じゃあ、旅に出ることにやっぱり意味なんて無いのだろうか。
旅先で得られる経験なんて、本質的には「普通」と変わらないものなのだろうか。
しかし、そのようなことを頭の中では考えながらも、この旅の中で、また別の感情も頭の中に生まれていた。
それは、「移動すること」の喜びだ。
数日前、ナガルコット行きのバスに乗っていた時、そして何よりも、カトマンズに到着したあの日、空港からタクシーに乗って砂塵を撒き散らしながら市街に向かっていたあの時、確かに自分はかつてない興奮を味わっていたのだ。
「ここで、一体何が自分を待ち受けているのだろうか」と。
それは一種のまやかしに過ぎないのかもしれない。
実際、先に書いたことを考慮すれば、そうであるのだろう。
だけど、そうであると心の何処かで分かっていながらも、「違う場所」に行くことに不思議と心が高ぶっている自分がいる。
もしかしたら、見たことのない景観がそこには広がっているのかもしれない。
もしかしたら、運命的な出会いがあるかもしれない。
もしかしたら、自分の人生を決定付ける何かに遭遇するかもしれない…
そんな、幾つもの「もしかしたら」を感じることのできる喜びを味わえるだけでも、旅に出る意味はあるのかもしれない。
そして今、東京に戻る自分の中に、不思議と未練は無い。
なぜなら、そこに「戻る」という意識は無く、むしろ新たな場所に「旅立つ」のだと感じる自分がいるからだ。
そう考えると、人という生き物は常に旅をしている存在なのかもしれない。
というより、旅が無ければ生きていけない生き物なのかもしれない。
次から次へと新しい場所に移動する中で、幾つもの「もしかしたら」を感じ、その中に喜びと興奮を覚える。
そして、そうすることで、「次」を生きていくための体力のようなものを蓄えることができるのだ。
そうであるならば、旅に出ること、いやむしろ違う場所を目指し向かうことに意味はあるのかもしれない。
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本日の買い物(1Rs=約1円)
・タバコ×1 40Rs
・メンチカツ定食 310Rs
・チョコレート×2 50Rs
・バフモモ 80Rs